西郷隆盛を育てた郷中教育は英才教育?現代に生かせることは?

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下級武士で貧乏だった西郷隆盛が、なぜ藩主の島津斉彬に見出されたのか。

藩主・島津斉彬に登用されなければ、後の活躍もなかったはず。

建白書の話は有名ですが、当時の薩摩教育「郷中教育」も深く関わっていそうです。

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西郷隆盛を育てた「郷中教育」とは?

西郷隆盛といえば、内村鑑三の「代表的日本人」に挙げられているほど、魅力的な人柄で愛されている人物。

NHK大河ドラマ「西郷どん」でも、無私無欲の精神や謙虚さ、人間愛に溢れた人物として描かれています。

しかし、西郷隆盛は「西郷どん」にもあるように日々の生活や家族を養うにも余裕のない貧乏な下級武士出身。

なぜ、お金がなく家柄で目立つところもない1人の下級武士が、藩主・島津斉彬に信頼されたのか…

一般論は「建白書」だが…

西郷隆盛と島津斉彬の出逢いの一般論は、西郷隆盛の「建白書」ですよね。

西郷隆盛の人柄や実力、建白書の内容や幕末という時勢もあるとは思います!

が、ここでは当時の薩摩藩で行われていた「郷中教育」に焦点をあててみました。

西郷隆盛も受けていた郷中教育

ドラマの舞台でもある薩摩藩では、幕末〜明治への橋渡しをした名士が多く出ている地。

この頃の薩摩では、武家の青少年への教育として「郷中教育」というものが伝統的に行われていました。

◎漢字の読み方
ごじゅうきょういく or ごちゅうきょういく

地域の武家少年が学び合う自習場

郷中教育は、簡単に言うと地域の武家の青少年を地域で育てていこうというスタンスの教育方法。

同じ地域(郷中)に住む武家の青少年たちが集まり、先輩が後輩の面倒をみて指導するもの。

学問や武術だけでなく、礼節、道徳教育なども行われていました。

年齢で変わる呼び名

郷中教育では年齢で3つの名前があり、6歳〜15歳位の少年(稚児)を、15歳以上の先輩が教えながら自身も学んでいくシステム。

・稚児(ちご)/6歳〜14・15歳
・二才(にせ)/14・15歳〜24・25歳
・長老(おせ)/24・25歳以上

絶対的な「教師」は決められておらず、子どもは好きな先輩を「先生」として学べたとか。

子どもによって先生が違うので、教えてもらうことも違います。そのため、価値観や思想が違うこともあります。

そこで、子どもたちは違う「先生」から教えてもらった内容をその日にお互い発表しあったといいます。

その日の内容を友達とシェアすること。
これは、アウトプットや復習にもなるので、情報共有の意味だけでなく本人もより深く落とし込める仕組みでもあたんです。

学問や武術にだけでなく、礼節、道徳教育なども行わていました。

…話がズレそうなので西郷隆盛に話を戻すと…

郷中教育で人気だった西郷隆盛

西郷隆盛は、この「郷中教育」で地域のリーダー的存在として地元では有名だったそうです。

貧乏な下級武士ですが、西郷隆盛に教えてもらった子どもたちは行儀よく賢いという評判が立ったそうなんですね。

郷中教育は地域ごとのグループがあり、当時の薩摩藩にはいくつもグループがありましたが、西郷隆盛がいる地域の子どもの育ちの良さが藩主・島津斉彬公の耳まで届いたのでしょう。

西郷隆盛は、「建白書」以前に注目されていたかも!

藩主・島津斉彬は、建白書を読む前に島津斉彬は西郷隆盛の地域の良きリーダーとしての噂を耳にしたこともあるはず。

「西郷隆盛とやらは、良きリーダーらしいぞ…」と目をつけていた中、優秀な内容の「建白書」が出されたかもしれません。

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